序章 — 激動の時代に立つ者
嘉永・安政から慶応に至る幕末期、日本は列強の圧力と国内の政治対立に揺れた。国を守るとは何か、天皇への忠誠とはどうあるべきか――。そうした問いに答えようとした者たちのひとりが、武田耕雲斎であった。
武田耕雲斎 — 生涯と志
武田正生、通称・耕雲斎は文化11年(1814)に水戸藩士の家に生まれた。若くして藩学や藩政に関わり、徳川斉昭や藤田東湖らと親交を深め、藩の国防強化や教育振興に心を砕いた。尊皇攘夷の理念は彼の信念となり、やがて若手志士との交流を通じて政治運動の中心に立っていく。
天狗党の成り立ち
「天狗党」と呼ばれた一群は、元来は水戸藩内の尊王攘夷論の流れの中で形成された。名は諸生党の揶揄に由来するが、当の彼らは天皇への直訴による攘夷実行を強く望んでいた。元治元年(1864)、藤田小四郎らが筑波山で蜂起し、行軍の決断へと至る。
有田からの呼応 — 濱口梧陵と菊池海荘
幕末の国防意識は全国的な広がりを見せ、紀州(和歌山)有田でも独自の動きが生じていた。濱口梧陵は嘉永5年(1852)に地域の教育・訓練施設を整え、後に「耐久社(耐久舎)」と称された稽古場や講習の場を通じて民兵的教練と学問を広めた。
同地域の菊池海荘は海防に関する建議や瀬見善水・羽山大学ら他と共に情報収集に奔走し、海防の方策を藩・地域に提言した。濱口の教育的整備と菊池の海防知見は相互に響き合い、南紀地域における自助的な備えが強化されたのである。こうした地方の動きは、幕末の国家的危機感が単に都市や中央だけでなく地域社会にも浸透していたことを示す。
行軍と降伏 — 冬の北陸へ
耕雲斎は当初、若い衆の暴発を抑えようと尽力したが、事態は収まらず、最終的に自身も天狗党の総帥として共に西上する。関東から中山道を越え、越前・敦賀に至る冬の行軍は過酷を極め、食糧不足や病が蔓延した。
敦賀で加賀藩に投降した後、彼らは寺院に収容され、厳しい環境下での拘禁生活を強いられた。幕府の判断は厳しく、慶応元年(1865)には多数の処刑が執行される。
最期と辞世
慶応元年、武田耕雲斎は長男・次男とともに処刑され、享年52。辞世の一節と伝わる句はこうである──
心は君に よせてぞ思ふ
その文言は、政争と混迷の時代を遠く見据えながらも、己の忠誠心を貫いた覚悟を示すものである。
後世の顕彰と史的意義
明治以降、耕雲斎は忠義の志士として顕彰され、敦賀や水戸には慰霊碑が建てられた。天狗党の挙兵は結果的に悲劇であったが、尊皇攘夷という理念と地域で進んだ自助的海防・教育の動きは、幕末という時代の一側面を色濃く伝えている。
また、濱口梧陵や菊池海荘の取り組みを合わせて見ることで、幕末の「国を守る」対策が中央のみならず地方にも広がっていたことが確認できる。